【コロナ】ボリビア・ヤパカニでの一年間を振り返って-パート1

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文化

こんにちは!こんばんは!おはようございます!

皆さん、いかがお過ごしですか?

コロナとの共存生活が始まってもう1年が経ちますね。

2月4日、昨日は僕がヤパカニに来て一年になる日です。

今回はこの一年の間に僕が見てきた周囲の状況について少しばかりまとめてみようかと思います。

なお一記事にまとめようとしましたができなかったので、これはひとまずパート1ということで。

今日もどうぞお付き合いください。

ヤパカニ到着直前~クアレンテナ開始

僕が初めてコロナウィルスの存在について知ったのは、たしか2020年の1月終わり頃だったと記憶しています。

当時僕がいたのはボリビアの政治上の首都ラパス

ボリビア人の友達が初めて「Coronavirus」と口に出した時は、正直頭の中にはハテナマークしか出ませんでした。

中国でなんだか得体のしれないウィルスが流行ってるらしいんだと。

まさかしばらく後に生活を一変させてしまうほどの存在だとはまったく想像もしていませんでした。

ヤパカニはとにかく蒸し暑い

南半球に位置するボリビアは日本とは季節が逆で、11月から3月あたりまでは気温が高く雨の多いまたは雨季になります。

2020年2月から僕が住んでいるヤパカニを含むサンタクルス県は基本的に一年を通して暑い地域。

地元の人たちの中にはこの時期を嫌う人が少なくありません。

「君は暑いのが好きみたいだけど、私たちはここにいたくてこんな暑い場所に住んでるんじゃないの(笑)」

なんて冗談も言われたり。

かくいう僕も、標高が高くて寒いラパスから蒸し暑いヤパカニに来るにあたっては少し気を遣いました。

実際、夜も蒸し暑さが続くわけなので扇風機を回さないと寝れない時もありました。

誰でもできる簡単な熱中症対策の一つが運動であるといわれています。

身体の動かせるところを動かすことによって、熱が体にこもらず外に逃げるようですね。

僕もコロナ以前はボランティア活動に携わりながらたくさんの距離を歩いたり移動したりしていました。

パーソナルスペース

コロナが始まって注目されるようになった用語のひとつが「ソーシャルディスタンス」つまり他人との距離ではないでしょうか。

本来の南米ボリビアの文化として、人と接する時には相手との距離が近い傾向にあります。

挨拶をする時には握手をしたり、ハグをしたり、頬にキスをしたりします。

暑い地域寒い地域を問わずボリビアではこのような習慣があり、人々の愛情深さをダイレクトに感じることができます。

日本人は他社との距離を一定以上に保つ傾向にありますが、このような文化に憧れる人も少なくないのではないでしょうか。

典型的な車社会

ボリビアはクルマ社会です。

例外としてラパスでは2010年代半ばにミ・テレフェリコ(Mi telefélico)というロープウェイ方式の交通機関ができました。

しかしその他には目立った大衆交通機関はなく、ほとんどがバス乗り合いタクシーまたは自家用車による移動です。

一方ヤパカニなどの中小規模の市町村では、バイクによるモトタクシー(Moto taxi)による移動が一般的。

なので、道路を見ると2人乗りバイクが溢れています。

コロナ到来後の急激な変化

ボリビアでコロナウィルスの流行が深刻化してきたのは2020年3月中旬頃のことです。

僕が引っ越してからわずか1ヶ月半後のことです。

世界の他の地域がどんどんコロナの波に飲み込まれていく中、本格的な流行は遅く様子を見守っていたボリビア。

世界中でパンデミックが広がっている」という報道に対し、「ボリビアは世界ではない」というジョークもあるような状況でした。

しかしそういっていられたのも束の間、コロナの波は速やかにボリビアを襲ってきました。

クアレンテナ

3月半ばに当時の暫定大統領により全国でクアレンテナ(Cuarentena: 外出禁止令)が発令されました。

実質他の国でいうところのロックダウンに等しい厳しい措置が取られました。

内容は個人的なあらゆる事情による外出の禁止

ただし、カルネ(carné: 身分証明書)の最後の桁の番号ごとに、平日の朝7時から12時までの買い物のための外出が可能でした。

たとえば、その桁が1または2であれば月曜日の外出許可、3か4であれば火曜日、という具合です。

ちなみに僕は3だったので、毎週火曜日に一週間分の食料を買い込んで計算しながら消化するという要領でした。

僕の場合は大使館からのメールによって詳細を知りましたが、この時の衝撃は今でも鮮明に覚えています。

一体いつまでこの状態が続くのだろうか、友達とまた一緒に活動したり自由に行き来することができるようになるのはいつなのだろうか…

そんなことがぐるぐると頭の中で回っていたと思います。

一週間分の買い物

クアレンテナが発令された当初、ハードルの高さを痛感したのは買い物でした。

指定の曜日になったら朝7時頃から買い物に繰り出すわけですが、最も入手に苦労したものの一つは

もちろん他のいろいろなものが品薄状態になっていたわけなのですが。

当初はほぼちょうど朝7時から並んでも、1時間かそれ以上待たされることはザラでした。

それでも、独り身で数週間分の卵を確保することができると考えれば耐えられる範囲でした。

列が詰まりすぎていると、時々巡回で通りかかる警察官がそれぞれ1m以上離れるように命令を出していました。

幸い僕が住んでいたのはヤパカニの中でもメルカド(Mercado)が歩いて数十歩のすぐそば、という好立地。

大きな袋無しで出かけて、市場の肉エリア、野菜エリア、牛乳屋さん、その他食料品店と家を数往復しました。

周りを見れば夫婦か親子が2人一緒に大量の荷物を抱えている様子も見受けられました。

そのように市場から遠いエリアや衛星集落に住む人たちにとっては、さらに工夫が求められたことでしょう。

水買うにもひと苦労

買い物に関して僕が苦労したことはもう一つありまして、それがです。

ボリビアの水道水はできるだけ直接飲むのは控えるに超したことはなく、通常はビドン(bidón)入りの水を買います。

当時の僕にとってこの水を手に入れることが至難の業だったのです。

なぜなら言語力がまだまだ足りず電話のやり取りがまともにできなかったから。

通常はビドンに電話番号が書いてあって、注文するとトラックで運んできてくれます。

ところが、かけても相手のごにょごにょ訛りがさっぱり分からない。

不自然な間ができて、挙句の果ていたずら電話か何かと勘違いされて切れてしまう

実際にこんな状況でした。今となっては考えられないですが(笑)。

外出禁止を破ると…

クアレンテナはカルネの番号で制限されていました。

都市部では警察官の巡回が厳しく、時間外の外出や対象外の曜日の外出が見つかった場合には8時間の拘束が科せられていました。

一時、収容されたと思われる若い男性が「帰りたい帰りたい」と連呼しながらしゃがみ歩きをする動画が出回っていました(笑)。

僕自身の周りではそのようなことは聞いたことはありませんが、Wi-Fiもない、充電もできない環境で8時間…

考えただけでもぞっとしてしまいます。

前代未聞の事態

いかがだったでしょうか。

こうして振り返ってみると、外出禁止令発令当初は言語力不足の中でよくやってたものだなと(笑)。

今後も記憶をたどれば書くべきことはたくさん出てくると思いますので、ぜひ楽しみにして頂ければ幸いです。

それでは今回はこの辺りで。

アスタルエーゴォー!

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